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渓流編  --第10話--

気狂いバジャーの誕生

イワナを釣りながらあちこちの源流帯を歩き回っていた頃、ピーコックの不思議な力に驚かされることが多かった。似たような出来事として、白という色に私は少なからず、他の色と違った意味合いを感じ始めていた。当時はドライフライ一辺倒であったから、白という色もドライフライに用いた場合の印象である。
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スペントバジャー。魚の飛び付き方が気違いじみている。
狂ったように釣れると言ったことから、当初はキチガイバジャーとよばれた。

ローヤルコーチマンと並んで、私が最初に憶えることになったフライは次のようなものだった。
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マリコ沢第一の滝。この先から渓は急勾配となり、暗くなる。


これらのフライにローヤルコーチマンを加えると、パターンの数が1ダースとなる。各々のパターンに付き3本ずつ入って計36本。1970年当時、私が簡単に入手できたフライは、このアメリカ向けの輸出用フライセットであった。後々、自分でそれらのパターンを巻くときになって初めて、それまで大切に使っていたフライが、おかしな巻き方であったり、パターンがいい加減であったりしたのに気が付くのだが、当時はもちろん判る筈もなかった。

さて問題の白いフライ、ホワイトミラーである。実はパーマシェンベルの方が更に大きな問題であったのだが、その頃の私にはとても難しくて巻けなかった。そのため専らホワイトミラーによって白という色を学ぶことになった。
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沢にだけ生息する天然ヤマメの美しさには、目を見張るものがある。

ホワイトミラーとの訣別

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ホワイトミラー。
フライフィッシングを始めた当初、最大、且つ切実な悩みはフライが見えないことであった。フライが浮かないことが理由の半分、残りの半分は探している所にフライが無かったからである。フライは探すものでなく、見ているところに浮かべるものだと言うことに気が付くのに、未だ暫く時間を必要としていた。そんな何もかも覚束ない有様でドライフライに取り組んでいた頃、ホワイトミラーは数あるフライの中で最も頼もしいフライであった。真っ白だから、良く見える。例え沈んでも、至近距離なら目で追うことができた。しかも夕方、辺りが暗くなって、一日の内で最高の一刻を迎えるにあたっても、これほど見える色はない。そんな状況であったから、初めはローヤルコーチマンより頼りにしていたほどである。件の3ダース入りドライフライセットを新調すると、真っ先にホワイトミラーがなくなり、見にくいアダムスやモスキートは使われずに次のセットに移住する有様だった。

ところがフライを見るのに慣れてくるに従い、ホワイトミラーを結ぶ回数は次第に減ってきた。他のフライを使えるようになったことも大きな理由の一つだが、どうも針掛かりが悪いような気がしてきたのである。魚の出が悪いと思ったことは余りなかったから、これは針掛かりの悪い理由が何か他にありそうだ、と言う所まで何とか辿り着いた。
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たたみ6畳ほどの水たまりがこの沢では大場所となる。
数匹のヤマメがフライに飛び出す。

5月のある日、私は数日前に見つけた沢の奥を調べたくて我慢できず、一人で新緑の奥多摩に向かった。その沢は丹波部落の裏山を流れる多摩川の支流で、鞠子(マリコ)沢と言う可愛らしい名が付いていた。最初に入ったときは生憎の雨で、ほんの入り口付近を釣るに止まったが、小さな沢にも拘わらず、立派なヤマメが釣れたおかげで、その奥が気になって仕方がなかった。

その日は曇って蒸し暑く、渓流の釣りには絶好の陽気であった。数日前に引き返した最後のプールを越えると、渓は暫くのあいだ雑木林の中を大人しく流れていた。低く垂れ下がった木の枝が水面を塞いでいたが、フライを投げると殆ど全てのポイントから美しい紋様のヤマメが飛び出した。6フィートのロッドを持ってきたのは正解だった。やがて雑木林を抜けると、突然目の前に滝が現れた。滝壺で更に数匹のヤマメを釣った後、注意深く周囲を見渡すと、左手の山肌に微かに人の歩いたような跡が見えた。私は木の根に掴まりながら慎重にその滝を巻いた。滝の上は渓相ががらっと変わり、両岸が迫って空が幾らも見えない急な岩場が続いていた。魚は相変わらずめぼしいポイントからちょくちょく顔を出すのだが、昼だというのに暗くてフライが見辛い。私はフライをホワイトミラーに結び直して更に上流へ向かった。
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25センチは大物の部類にはいる。
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暗い中流部をい抜けると、突然明るい源流帯が広がる。

上流は更に険しさを増して迫ってきた。流されるような心配は全く無いほどの水量だが、足を踏み外したらかなり危険な状況が続いていた。その暗さの中で新しく換えたフライは良く見えた。しかし次第に魚の反応が悪くなり、この辺りでお終いかなと思い始めた頃、急なカーブを曲がった途端に視界が開けた。行く手に空が大きく広がり、左右に稜線が見える。同時に渓の傾斜が緩くなって、なだらかなポイントが現れ始めた。そこを境に魚の数は急に増えた。たいして広くもない淵にフライを浮かべると、ヤマメが5匹も6匹も飛び付く。次の淵も同じように何匹もの魚がフライに飛び出して来た。しかしその魚の数の多さにしては、針掛かりする魚が少ない。私はフライを元のローヤルコーチマンに戻した。その違いには目を見張るものがあった。魚の飛び付き方がやや遅くなった代わりに、しっかりとフライをくわえている。おかげで合わせ易いし、合わせればガッチリと掛かっているし、何と釣りやすかったことか。

たった一日の出来事ではあったけれど、その日のことは其れまでのもやもやした疑問を解くに充分であった。ホワイトミラーに対する魚の反応は、明らかに他のフライに比べて神経質で、フッキングの確率が悪くなる。暗いときに最も良く見えるフライというメリットを生かす以外、リーダーに結ぶ機会が減り始めた。

-- つづく --
2006年10月03日  沢田 賢一郎