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渓流編  --第16話--

Vカットハックル

ドライフライのハックルの下側をカットする事を私はVカットと呼び、今日まで続けて行っている。下側をカットすると言っても、下側に生えているハックル全部を切ってしまう訳ではない。真下を中心に凡そ90度ほどの範囲内に生えているハックルを、その根本から切り取ってしまう。ハックルをハサミでカットする時、フライを逆さまにして持つ。するとカットしたためにできるハックルのない部分がV型になるので、こうした名前を付けた。言うまでもなく、ドライフライに対する魚の反応を良くし、フッキングの確率を上げるためであった。
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標準のハックル(左)とVカットしたハックル(右)を持ったスペントバジャー。

真瀬川のヤマメ

私が初めてそれを実験したのは1970年代の終わり頃、秋田の真瀬川を遡行している時だった。5月の終わりは雪代が収まり、目に眩しい新緑の中、渓流魚たちが一斉にライズを始める。めぼしいポイントには何カ所も同時に波紋が広がって、我々フライフィッシャーマンにとって正に天国で釣りをしているようだった。その日は釣り始めてから暫くのあいだ全く快調で、30分ほどの間に10匹ほどのイワナやヤマメがドライフライを飲み込むようにして上がってきた。更に行く手には見渡す限り無数のライズの輪が広がっている。今日はいったい何匹魚が釣れるだろう。おそらく記録的な釣りになるに違いない。滅多にお目にかかれない好条件に恵まれ、私の心はうきうき、石から石へ足取りも軽く遡行していた。

ところが昼近くになって何やら様子が変わってきた。20匹ほど釣り上げてからと言うもの、空合わせが目に見えて多くなり、ひどいときは連続で何回も空振りに終わった。時間が経つにつれその傾向はますます強くなる一方である。私は遂に遡行するのを止め、水面を見やった。目の前の緩い瀬でヤマメがライズした。今しがた私が合わせに失敗した魚である。水面には肉眼でよく見えないが、小さな虫が流れているのが判る。彼らはあの小さな虫を食べているのだろう。
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ハックルをVカットするのを発見して以来、スピナーを使用する頻度がますます高くなった。スペントバジャーを捕らえた、否、スペントバジャーに捕らえられたヤマメ。

私は12番のフライを外し、14番のスペントバジャーを結んでみた。一流し目、ヤマメが飛び出し、フライをくわえた。私にはそう見えた。しかしまたもや空合わせに終わった。私は深呼吸してから、もう一度フライを流した。目を皿のようにして見つめている私の前で、ヤマメは再び顔を出した。フライが消えたのを確かめてから合わそうと心に決めていたから、何とかロッドを持ち上げずに済んだ。ヤマメが顔を出して作った波紋の中に、フライが揺れながら浮いているではないか。そうか、やはり食べていないのか。そう言えば、先ほどから魚の出方が何となくおかしかった。何が気に入らないのだろう。私はフライのサイズを16番に落としてみた。目の前のヤマメは全く同じように顔を出し、同じようにフライを小突いて終わった。仕方なく、私は5メートルほど上流のライズに向けてフライを投げた。フライは小さな飛沫と共に消え、ヤマメが水面を割って抵抗しながら上がってきた。喜びも束の間、次の魚は再びフライをつついただけで止めた。サイズを小さくして少しは改善したけれど、根本的に何かが間違っている。

私は時々飛んできて身体に止まる小さなダンを眺めながら考えた。当たり前だがフライは本物の虫ではない。しかし魚はフライを本物の虫と勘違いして飛び付く。事実、初めのうちは盛んに飛び付いた。しかし、次第に関心を示すだけで食べなくなった。水面を流れるこれら夥しい数のダンを食べるようになってからだ。このダンと私の結んでいるフライの違いは何だろう。
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5月末、雪代によってすっかり体調を回復した真瀬川のイワナ。

水面低く浮くフライ

本物でないフライを使って問題なく釣れるときが多いから、色やウィングのサイズやテールの本数といった些細な問題でなく、何か決定的な違いではないだろうか。フライと本物の虫との根本的な相違について、私には以前からずっと気になっていた点があった。それはフライの浮き方、即ち水面での姿勢である。本物の虫はどんな種類のものであっても、水面に載って浮くときは身体全体が水面低く接するような姿勢をとり、尻尾が上を向く。一方、ハックルを厚く巻いたドライフライは、胸を張り前足を突き出して反っくり返っているから、尻尾が下がり全く逆の姿勢となる。ハックルのおかげで浮いているから仕方がないとは言え、水面から見た姿勢やプロポーションは随分と違った印象を与えるに違いない。何とか頭や胸の方を低くしたい。
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スペントバジャー、ワイルドキャナリーと言う二大スピナー以外にも、私は幾つかの可愛らしいスピナーをフライボックスに詰め込んでいた。
左から、ランズパティキュラ、イエローボーイ、オレンジホーク、B.W.O.スピナー、マセオレンジ。

フライをしげしげと見つめながら、私はポケットからハサミを取り出し、胸に相当する部分のハックルを根本からカットし始めた。直角に近い角度で水面に接するハックル、即ちフライの真下に伸びている部分を取り除けば、周辺のハックルは湾曲するだろうから、フライの頭側がかなり低くなるだろう。同時に針先が隠れなくなって、フッキングも良くなるに違いない。更に姿勢が安定することにより、フライが水面を転がったり、魚がフライを弾き飛ばすことも減るだろう。そんな事を考えながらハックルを少しずつカットし、生えていない部分が90度ほどになったところで、私はそのフライをライズ目がけて投げてみた。
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ヤマメの人気はその姿が美しいからだけでなく、フライにじゃれついて、釣り人を翻弄するからかも知れない。
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Vカットハックルを最初に思いついた真瀬川の豊かな流れ。写真は1979頃。

何という可愛らしさ。本物より本物らしい。フライが水面に浮いた瞬間、私の印象は魚が釣れるかどうかより、その愛らしさに向いてしまった。今まで何度となく見てきたフライが、新しい生き物に生まれ変わったようだ。それまで流れてくるフライから漂っていた人工的なよそよそしさ、不自然さがすっかり消え失せている。これは釣れそうだ。そう思った時にはフライは既に魚の口の中に仕舞われていた。

それからの私は正に有頂天だった。あちこちのポイントから、本当にこれまでと同じ魚かと疑いたくなるほどの変わり様で、魚が飛び出してくる。流れてくるフライを絶対逃すまい。川中の魚がそう思っているようにさえ見えた。暫くして少しばかり冷静になった私は、フライの流れ方が今までと変わっていることに気がついた。フライが水面で安定した姿勢を保っているため、ドラッグが掛かりにくくなったのだ。風が吹いても、フライが水面を滑ったり、転がったりすることがなくなった。ハックルをVカットしたフライの流れて来る姿が、まるで本物の虫のように見えたのは、その姿や姿勢もさることながら、流れ方までもが本物に近付いたためだった。

この日を境に、私はフライボックスに仕舞うフライ、特にスピナーのハックルを全てVカットするようになった。

-- つづく --
2001年08月05日  沢田 賢一郎