ワイルドキャナリー
私の考えたドライフライの中で、スペントバジャーと並び最もポピュラーになったフライ、それがワイルドキャナリーであった。全身がジンジャーかライトジンジャーで作られているため、カナリアのような色に仕上がっている。カナリアは籠の鳥だが、このキャナリーは野生そのもの。そう言った意味でワイルドキャナリーという名前を付けた。一部に言われていた「かなりワイルド」をもじったものではない。しかしそう言われるほど、このフライは野性的なハンターで、何時でも何処でも最も頼りになるフライであると同時に、パイロットフライとしても、大物キラーとしても第一級のフライである。
ワイルドキャナリー。10番の大型から小さな16番まで、全てのサイズが効果的なフライ。
高原川の夏ヤマメ
私がこのフライを考案したのは1980年頃だったと思う。当時私はその他にも幾つかのスピナーを思い付いていて、それぞれ釣り場の雰囲気に合わせて使い分けていた。奥多摩水系にはアプリコットスピナー、千曲川水系にはホタル、野呂川水系にはプリンスロイヤル、そして真瀬川にはマセオレンジやブラックバットという具合だった。ワイルドキャナリーが最初のホームグラウンドを持つようになったのは、岐阜県の高原川に通うようになった時であった。
高原川は一般の渓流と比べる限り、かなり特殊な川である。急峻な北アルプスから流れ落ちた水が一気に集まるため、ひどい暴れ川である。流域に取水口が幾つかあるおかげで、昔から見れば随分と大人しい流れになったが、今でも雨が降れば瞬く間に人を寄せ付けない濁流と化す。特に雪代の季節は最悪で、釣りができない日の方が多いくらいだ。ところがそれだけ豊富な水量に恵まれているにも拘わらず、徒渉する場所がないほどに川が育つのは5月から6月にかけての期間だけで、それ以前もそれ以降も、大量の取水の影響で川は広い採石場のような河原の中を細々と流れているに過ぎない。これほど水量の変化の激しい川も珍しい。
雪代に磨かれたヤマメ。この時期のヤマメは美しいだけでなく、一年中で最もパワフル。
高原川がその姿を最も美しく見せるのは、雪代が落ち着く初夏であるが、同時にその時期は滝のような流れと闘うことを意味している。石が大きいため流れは複雑になり、フライを上手く流すのが難しい。速くてトリッキーな流れに負けないだけの浮力と視認性を備えたフライが欲しくなる。ワイルドキャナリーはそう言った状況に正に打ってつけだった。
私が高原川で初めて釣りをした日、リーダーの先にこのフライを結んでいた。確か1982年6月の末頃だったと記憶している。私は高原川が蒲田川と名を変える栃尾の外れから川に入り、直ぐに一匹のヤマメを釣り上げた。30センチを僅かに下回っていたが、なかなかのファイターだった。最初のヤマメを釣り上げた場所からほど遠くない瀬で、2匹目のヤマメがフライに浮上した。最初の魚より一回り以上大きいのが一目で判った。フライが吸い込まれるのを待って、私が軽く合わせたのと同時に、それはヤマメらしからぬ猛スピードで、白泡の続く瀬に突き刺さった。ロッドが大きくしなり、直後にリールが少しだけ逆転した。それだけだった。腑に落ちない私がラインを手繰り寄せると、今しがたヤマメにくわえられていたワイルドキャナリーが戻ってきた。想像したとおりリーダーが切れたわけではなかった。しかしフライを手にとった私の目に映ったのは、14番のフックの僅かに変形した姿だった。そのフックは特別細いものではない。事実、それまでベンドが開いて魚を逃したことがないフックだった。
パーマークが薄く、まるでサクラマスのようなヤマメ。高原川独特のスタイルだ。
私はフライを新しいものに結び換え、再び上流を目指した。50メートル程上流に歩いた所に一見して怪しいポイントが現れた。たたみ6畳ほどの広さの淵に絞られた流れが落ち込んでいて、大きな白泡を作っている。その泡の切れ目に大きな浮き石がまるで誂えたように沈んでいる。大きなヤマメが住むのに絶好な流れだ。ところが厄介なことに、その淵に2本の木が水面を跨ぐように倒れ込んでいる。どうやってフライを投げようか。投げるのは良いにしても、魚が掛かったらどうしよう。倒木の間から引きずりあげるより手がないように見える。しかし抜き上げることができないサイズだったらどうしよう。魚が倒木の下を通って下流に走ったら多分上がらないだろう。どう考えても無理だと思ったが、だからと言ってフライを投げずに見過ごすことはできない。倒木さえ無ければそれほど魅力的な流れだった。
雪代がすっかり収まって、静けさを取り戻した6月の高原川。
私は2本の倒木の隙間にラインを伸ばし、フライを落ち込みの白泡の上に落とした。フライラインの先が、流れを跨いだ倒木の上に載っている。フライが泡の切れ目を過ぎた時、底石の影から前回と同じような薄青い影が浮上し、フライが水面から消えた。私は何時になく慎重に合わせた。ずっしりとした手応えと同時に魚は落ち込みの泡の下に潜った。かなりの力だ。ロッドを大きく曲げたまま動こうとしない。ほんの暫くのあいだ膠着状態が続いた後、魚は突如反転して下流に向かった。私はその瞬間を見逃さずに魚を引き上げようと試みたが、水面まで引き上げるのが精一杯だった。30センチを楽に越えた銀色のヤマメは、身を翻し下の瀬に走った。勿論倒木の下を潜って。リールが逆転し、ラインが木の肌を擦りながら伸びていく。しかしそれも長く続かなかった。木肌にラインがくい込み、全てが終わった。
予想通りの結果に終わったとは言え、魚を逃がしたことに変わりはない。悔しさで身体中がはち切れそうだった。気が付くと辺りは既に夕方の気配に包まれている。これからがチャンスだと、何とか気を取り直して上流に向かい釣り始めた途端、今度は急に濁りが入ってきた。上流で行われていた河川改修工事が終わり、川岸の土砂を崩したためらしい。これで今日のドライフライの釣りは幕切れになってしまった。
ワイルドキャナリーの兄弟のようなフライ。アプリコットスピナー(左)とプリンスロイヤル(右)
このまま引き上げるのも癪に触ると思いながら、道路への上がり口に向かって少しばかり上流に向かうと、目の前に立派な淵が見えてきた。水が濁っていて良く判らないが、対岸の岩盤の様子からして、その付近で最も深そうに見える。私はそれまでドライフライを結んでいたリーダーを外し、7フィート半の2Xのリーダーに付け替えると、その先に一本のウェットフライを結びつけた。そのウェットフライはピーコックのウィングにヘンフェザントのハックルを持っていて、今日のピーコッククィーンの元になったフライだった。支度を終えた頃、辺りはめっきり暗くなり、岩盤に跳ね上がる波が水面に花が咲いたように白く砕けていた。水は未だ濁っているし、今日は見込みがないと半ば諦めかけた頃、対岸で随分大きな花が咲いたように見えた。目を凝らすと、確かに岸の直ぐ手前で水面が破裂するのが見える。私はラインを徐々に伸ばしながら対岸に向けてフライを投げ始めた。3投目、斜め下流に伸びたラインが対岸すれすれにフライを運んだ直後、ドスンと言った当たりがやってきた。合わせたロッドに頭を振るヤマメ特有の振動が伝わってくる。水が濁っているせいでファイトは大人しかったが、引きずり上げてみると、30センチを越えた見事なポロポーションのヤマメであった。
雪代の流れる季節を除くと、ヤマメの身体もすっかり川の魚らしく見える。
川から戻った私は2回目の釣行に備えてフライを見直した。先ず12番と10番のワイドゲイプの丈夫なフックを用意し、その上にワイルドキャナリーを厚めに何本も巻いた。10番のスピナーは一般のドライフライから見るとかなり大きい。本物のメイフライスピナーより小さいものの、水平に伸びたウィングの幅は、フライボックスに無理やり押し込まなければならないほど広かった。この大型フライは大成功だった。Vカットを施したスピナーは水の多い季節、速くて複雑な流れをものともせずに浮き続けたばかりでなく、視認性が抜群で、遠く離れていても、薄暗くなっても手に取るように良く見えた。対岸で釣っている人から、自分のフライよりも良く見えると言われたほどだった。勿論、フッキング性能も大幅に向上した。
-- つづく --
2001年08月12日 沢田 賢一郎