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湖沼編 • 丸沼  --第21話--

ラブハンター

初年度の釣りがとても面白かったものだから、翌1976年はシーズンの到来が待ち遠しくてならず、早いのを承知で出かけてみることにした。7月の半ば、夏の真っ最中の事であった。8月の末には秋の気配が濃厚になる丸沼であったが、さすがに梅雨明け直後は違っていた。海抜の高さを感じたのは陽が昇る迄で、水面に光が差し込んでからは、平地の湖と何ら変わらない暑さだ。水位が高いため、岸から張り出した木の枝が水面の直ぐ上を厚く覆っていて、もう一度ヘラブナ釣りに来ても良さそうに見えた。

私は朝早くから岸に沿ってフライを投げ始めたが、出てきた魚は一匹もいなかった。ライズもほんの数回見えただけ、それもフライを投げて狙えるような場所ではなかった。さらに時間が経つにつれ、陽射しは強くなる一方。この炎天下では最早ひなたは釣りにならないだろう。私はなるべく大きな日陰を選び、グリッズルのハックルを使って新しく巻いたフライを投げ続けた。
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7月の炎天下、岸沿いの日陰に怪しい魚影を発見。

午前10時頃だったと思う。張り出した木の枝の下に浮かべたフライを眺めていると、岸沿いになにやら動くものが目に入った。フライの15m程右側、岸すれすれを何かが泳いでいる。姿がはっきり見えないが大型の魚であることは確かだ。私のフライは岸から少し離れた所に浮いている。その距離が5m程になったとき、影が水面に浮上し何かを食べた。大きい。60cmは優にあるだろう。私はラインをピックアップすると、フライを岸すれすれに慎重に投げ直した。魚影との距離は3mもない。その間隔が見る見る詰まってくる。呼吸が止まり、早鐘のような鼓動が全身を包んだ。息苦しくなるような数秒間が過ぎたとき、魚影はフライの直前で浮上し、微動だにせず浮いていたグレーの固まりを静かに飲み込んだ。一呼吸おいて合わせた瞬間、私は丸沼ではかって経験したことのないズシンとした重さをロッドに感じた。と同時に、魚はは猛烈な勢いで沖に向かって走った。ラインがあっと言う間にロッドの先から飛び出していく。
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フライラインが全て水中に没した時、私は大物を掛けた喜びから一転して、顔が青ざめていくのが自分でも判った。もうこれ以上バッキングがない。私は片手でオールを掴むと、必死でボートをラインが伸びている方向に向けた。ロッドを舳先の方へ倒し、リールに残った僅かなバッキングでやりとりするうち、魚が向きを変えた。私は貪るように緩み始めたラインをリールに巻き込んだ。バッキングを全て巻き込んだとき、ふと気がつくと、私の乗ったボートは風もないのに遙か沖にいた。フッキングした場所から50m以上も魚に引っ張られていたのだ。ファイトを開始してから7、8分経過しただろうか、水面に突き刺さったまま深く水中に没していたラインが、水平に伸びてきた。魚が水面に向かっている。暫くして20m程先の水面に大きな波紋ができた。眩しくて良く見えないが、魚のシルエットからその大きさが判る。フッキングしたときより更に大きく見える。魚は一度浮上したのを機に随分と大人しくなった。もう深くは潜れないだろう。
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ラブハンター。こんな名前を付けることになろうとは、想像もしていなかった。

私は慎重にリールを巻き、魚との距離を詰めに掛かった。魚は苦し紛れにボートの周りを回りながら再び水面に浮き上がり、一瞬だったが私の目の前にその姿を現した。

「えっ!!」

私は我が目を疑った。ウロコが見えたような気がしたのだ。

「まさか」

私はもう一度引き上げにかかった。魚は再びボートの回りを半周して浮上してきた。距離も近いし光線の具合も良いので、今度は鮮明に見えた。

「そんな馬鹿な、冗談だろう」

私の身体から一気に力が抜けてしまった。その60cm程の身体には、ウロコどころか短いヒゲまではっきり見えた。がっくりして一度に疲れ果ててしまったが、このまま放っておく訳にもいかない。私はネットを用意すると、それまでとは比較にならないほど強引に魚を引き寄せ、すくい上げた。ネットの中で口をパクパクさせているのは紛れもなく鯉である。それも立派な鯉だ。その突き出した口に、この日初めて使った、未だ名前を付けていないフライがしっかりとまっている。そのフライに付ける名前はもうこれしかないだろうと思って命名した。それがラブハンターだった。
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最初の獲物は予想外だったが、後に、このフライは丸沼のキラーフライとしてその名を馳せた。
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最小55cm、最大で75cm。山上湖の鯉はそのパワーでボートを引きずり回す。

これは何かの間違いだろう。以前、河口湖で釣りをしているときにも、鯉や真ブナやヘラブナをフライで釣ったことがあったから、丸沼で鯉が釣れても不思議ではない。しかし釣れ方もファイトも全く鯉らしくなかったから、すっかり騙されてしまった。もうこんな事は起こらないだろう。そう思ったのも束の間、それ以降立て続けに2本の鯉がラブハンターを飲み込んだ。

午後になってそよ風が吹き始めた時、沖の方でライズが幾つか出始めた。よし、あれは間違いないだろう。私はすぐさまボートをダムサイトへ向けて漕ぎ始めた。ライズを見つけた辺りに着くと、私は立ち上がり、ラインを10mばかり伸ばしていつでも投げられる用意をした。ところが暫く待っても湖面は静まりかえったままだ。先ほどのライズは一体何だったのだろう。そう思い始めた頃、50m程先でライズが見えた。そして直ぐその先でも水の輪が広がっている。明らかに数匹の魚が水面の餌を採りながら移動している。私は急いでボートをそのライズの進行方向に向けて漕いだ。ライズの群れはゆっくり移動している。私はその行く手にボートを止め、フライを浮かべながら待ち構えた。幸いライズは真っ直ぐに近づいて来る。私は静かにラインをピックアップし、フォルスキャストをしながらその間合いを計った。もう直ぐと言うところで、私はフォルスキャストを止め、ラインを後ろの水面に落とした。フライを投げようとした私の目に映ったのは、水面を泳ぐ鯉、それも50匹以上もの群だった。

-- つづく --
2001年09月09日  沢田 賢一郎