本栖湖のブラウントラウト。その巨体はモンスターと呼ばれるに相応しい。
本栖湖のモンスター
丸沼でレインボーを釣っていた頃から、本栖湖が気になっていた。正確に言うと、本栖湖に住むブラウントラウトのことが気になっていた。その昔、私が丸沼に初めてヘラブナを釣りに行った頃、つまり学生時代から、私は本栖湖に幾度となく釣りに行った。そのため、湖の様子を丸沼よりずっと詳しく知っていた。
その1960年代の中頃、私は本栖湖で鯉、真ブナ、ハヤ、ウナギ、ナマズと言った魚をもっぱら釣っていたが、真ブナ以外はたった一種類の餌で釣っていた。湖に古くから生息する鮎を餌に使っていたのだ。本栖湖には当時無数の鮎が住んでいて、夏の終わりから産卵に入る。浅場におびただしい数の鮎が集まり、産卵する様子はとても神秘的だった。明け方になると、湖底がまるで短い藻で覆われているかのように、砂底が鮎で埋め尽くされていた。その産卵場所を取り囲んで様々な魚が泳いでいた。みな御馳走に集まってきた魚たちであった。
私がその産卵している10cm程の小さな鮎に釣り針を通して放り込むと、前記の魚たちが釣れてきた。何が掛かるか判らない。最も良く釣れて来たのがナマズとハヤ。ナマズのサイズが平均で60cmあったことには驚かなかったが、ハヤが小さくても40cmを越えていたのは驚きだった。鮎は本栖湖に住む魚達にとってかけがえのない御馳走だったに違いない。それから何年もたって、放流されたブラウンが大きく育ったと聞いたとき、私にはひらめくものがあった。ハヤが40cmを越えるのだ。ブラウンがあの鮎を食べたらどれほど大きくなるものか。その大きくなったブラウンを釣るには鮎の多い場所を狙えば良いだろう。そして秋になったら産卵場所をマークすれば・・・!と、未だ一度もブラウンを釣りに行かないうちから、釣ったつもりになっていた。
長崎から見る朝の富士。本栖湖に通う度に勇気づけられる。
静まりかえった長崎湾から夜明けの長崎をのぞむ。
群青の群れ
1976年の5月、私は丸沼がそうであったように、久しぶりに本栖湖の畔に立っていた。50cmを越えるブラウンが釣れたらしい、と言った程度の頼りない情報しかなかったから、先ずは通い慣れた長崎の突端に向かい、大きな岩の上に立って様子を窺った。ここはこの湖に住む魚の通り道になっていて、過去に数多くの大型魚を、と言っても鱒ではないが、見てきた。着いて間もなく、多分午前10時頃だったと思うが、風が止んで水中が綺麗に見通せるようになった。本栖湖は今でも水の透明度の高い湖として知られているが、今から20年以上前は、釣りをするのが馬鹿らしくなるほど水中が丸見えだった。
10分ほど経った頃、30m程沖合で波紋が広がった。魚の姿は見えないが、私はその付近を凝視し続けた。暫くして雲が退き、陽の光が水中に強く差し込んだとき、私は左手前方からゆっくり泳いでくる大きな魚を発見した。何だろう。本栖湖では見たことのない魚だ。そのアイアンブルーの影が25mほど手前で向きを変えたとき、私の目に大きく裂けた口と脂ビレがはっきりと映った。ブラウンだ。ブラウンに違いない。それにしてもかなりのサイズだ。50cmどころではないぞ。驚いたのはそれだけではなかった。同じサイズの魚が間隔を開けながらゆっくりと泳いで来るではないか。私は我に返るとリールからラインを夢中で引き出した。
1976年5月、珍しく静まりかえった長崎の突端。この岩の上でブラウンを発見した。
届くかどうか心配している時ではなかった。私は7番のバンブーロッドを一閃し、リーダーの先に結んで置いたグレーゴーストを思いきり飛ばした。数投目、フライは何とか魚の通り道に届いた。すると直ぐ先から泳いで来た魚は進路を変えてしまった。同じことが数回起きた。魚は全くフライに興味がないらしい。諦めきれずに投げ続けること約30分。湖面は元のように静まりかえり、魚影は見えなくなってしまった。あれほど沢山のブラウン、しかも全て大型魚を見たのは、それが最初で最後であった。しかしそのおかげで、私の本栖湖通いが始まってしまった。
その年の秋も深まってきた頃、私は再び本栖湖を訪れた。しかしほんの数回だけで、それ以上出かけることをしなかった。私の頭からどうしても鮎の姿が消えない。鮎らしいフライとなるとフックサイズは2番か4番が必要になる。どうしてもそういうフライを投げたかったのだが、一度水際に立つと、後ろのバンクはきついし、風も強い。第一、余りにも水の透明度が高いものだから、20mくらい投げてもフライの周囲は丸見え。魚が一匹も居ないのが厭でも判ってしまう。もっと投げたいのはやまやまなれど、当時の標準的な6番や7番のロッドでは、投げたフライが風に押し戻されて来る始末で、全く使い物にならなかった。さりとて、体力の限界だった9番や10番のバンブーやグラスファイバーのロッドをもってしても、そんな大きなストリーマーを30mも投げるのは、とても無理な相談だった。
1977年12月、吹雪の長崎。秋に鮎の産卵床が多く見られる。
ダブルハンドロッド
冬の間、私はすっかり手に馴染んできたダブルハンド・ロッドが面白くて、レッスンの合間によく振っていた。バンブー・ロッドだから重くてもの凄く柔らかい。本来スペイキャストのためにあるロッドだからそれは仕方がないことだが、ラインの重さを生かして何とか湖で使いたいと思っていた。ただし本栖湖のように水の綺麗な場所で、ロールキャストやスペイキャストを使って動いている鱒を釣るのはほぼ不可能だ。仮に泳いでいる魚にタイミングが合ったとしても、ラインの音で魚を追い払うのがおちだし、それよりも風が強くて飛ばせない日が多いだろう。そんなとき、初めてウェイトフォワードの10番と12番、しかもロングベリーのラインを手に入れた。今では不思議に思えるかも知れないが、サーモンロッドと言えばスペイキャスト用のロッドしか無い時代だったから、ラインもダブルテーパーが普通だった。新しく手に入れたウェイトフォワードラインを通してロッドを振ってみると、オーバーヘッド・キャストで長いラインが随分と簡単に飛んだ。しかもバックが下がらない。しめた、これならいける。私の期待はまたまた広がった。
春が来て、誰もが本栖湖のことなど忘れてしまったが、私は富士山に近い場所に出かけるとき、必ずそのダブルハンドを車に積んでいた。
-- つづく --
2001年09月16日 沢田 賢一郎