準備
来る日も来る日も、目を閉じるとあの黒い影が現れる。あの日以来、数回に亘って雪辱戦を試みたが、全て門前払いに終わってしまった。その年は本栖湖の水位が低く、水温が早くから上昇して、5月の連休明けには既に夏のようであった。私は次のシーズン、水温が下がる秋に備えて準備を始めた。
あの日、私は新しく手に入れたテーパーリーダーを結んでいた。その当時、日本に初めて輸入された0Xという太いサイズだった。後で私がフライを結び直して引っ張ったら、信じられないほど少ない力で簡単に切れた。見た目に太かったので安心していたのが間違いだった。私は同じ失敗を繰り返さないよう、先ずリーダーを作り直した。と言っても単に3号の糸を、先をカットしたリーダーの途中に結んだだけだった。3号はおよそ0Xだから、形は基本的に変わらないが、強さは間違いなく数倍になった。実は、この苦い経験が、後年、私に世界一のテーパーリーダーの製産を目指させる最も大きなきっかけとなった。
浩庵荘から見る日の出。天気は猫の目のように変わりやすい。
リーダーの次はラインだ。私は同じく当時、初めて誕生したシューティングラインに目を付け、シンキングラインに繋いでみた。結果は大成功で、遠投が驚くほど簡単にできるようになった。ただ問題が無かった訳ではない。先ず第一に繋ぐのが大変だった。シューティングラインの表面をカッターで削り落とし、中のブレードラインを解すことから始めた。それを使用するラインの中にエポキシ接着剤を塗って通し、乾くまで一日待たなければならない。翌日引っ張って抜けたら、またやり直しである。上手くいっても、時間の問題で抜ける。シューティングラインも岩の角に掛かると、簡単に切れてしまう。まるで腫れ物に触るようだったが、釣れる範囲が広がる喜びは大きかった。
手に入ったばかりのシューティングラインを直ぐに使用してみた。当時としては抜群に飛ぶようになったが、切らないよう細心の注意を払った。
夏の間にいろいろ試した結果、私が本栖湖用に準備したラインは基本的に二種類となった。一つはシューティングラインを繋いだいわゆるシューティングヘッドで、シンキングラインを主に加工した。一方、フローティングラインは岸近くでライズする魚を狙うことが多いことから、投げ直しが瞬時にできるよう、ウェイトフォワードをそのまま使うことにした。
フィエスタ
ダブルハンド・ロッドに最先端のライン、残るは最も重要なフライであった。4月のあの日、ブラウン目がけて私がフライを投げた回数は、1回や2回ではなかった。タイミングも場所もかなり際どいものがあったのに、実際に魚が飛び出すまでかなり時間がかかった。そういう意味で、フライの改良は重要な課題だった。新しいフライを考えるにあたって、私が意図した性能が幾つかあった。それらは、
- 鮎、ワカサギ、ヤマベと言った彼らの主食に近いサイズと雰囲気を持つこと。
- 投げた後、水面になるべく長い時間浮いていること。
- 引いても放置しても、同じプロポーションをできるだけ長く維持すること。
以上の3条件を満たすことを念頭に置いて、私は1本のフライを巻き上げた。
ロングシャンクの2番のフックを用意し、ボディをマイラーチューブで作った。メインウィングに、最も浮力に富んだフェザーであるマラブーを2枚合わせて縛り付け、浮力とボリュームの両方を手に入れた。但し、マラブーは水面でタンポポの種のように開いてしまう。それを防ぐため、上からバックテールを被せ、両サイドには幅の広いハックルを結んだ。更に型くずれを防ぎ、小魚らしい化粧を施すため、トップにピーコックソード、サイドにジャングルコックのショルダーとアイを結んだ。
2番のフックに巻いたフィエスタ。マラブー、サイドハックル、バックテールなどの色を変えて、多くのバリエーションを作った。
完成したフライを初めてテストした時、これを食わない魚はいない、そう思えるほど魅力的な姿だった。念入りに調べたことと言えば、すっかり水に馴染んだ後、何秒くらいそのままの姿で浮いているかであった。そのため、私はフライを時々足下の水面に浮かべ、その様子を確認した。
このフライは紛れもなくストリーマーである。ストリーマーの一般的な認識として、非常にシンプルなのが普通であったから、サイドやトッピングのあるパターンは当時、何処を探しても見あたらなかった。私はマラブー・ストリーマーを、自分の意図に沿うよう改良するにあたって、結果的にお祭りの飾り付けを施したようなフライを作った。フィエスタという名前の由来はそこから来ている。
黄金の輝き
秋になって再び丸沼のシーズンがやってきた。9月、10月と、枝の下を巡る釣りから始まって、沖のモグラ叩きに移っていく。水温が下がったせいで鯉の見えなくなった湖面に、私は安心してラブハンターを浮かせて楽しんでいた。11月の初め、シーズン最後の丸沼を楽しむ予定でいたところ、低気圧の接近で天気が怪しくなってきた。丸沼は海抜が高いため、天気が崩れるとかなり荒れる。晩秋には雪が降る。私は急きょ予定を変更して本栖に向かうことにした。
1977年11月、初めてのモンスターに見とれる。
夜が明けた頃、本栖湖の上空は黒い雲と淡い色の青空が複雑に混じり合い、不気味な雰囲気を醸し出していた。やがて、雲が飛び、湖面に風が巻き始めた。気圧の谷が通過したのだろう。8時を過ぎた頃から天気が急速に回復し、見る見る青空が広がってきた。私はそれを見届けると支度を始め、久しぶりに長崎の湾に入った。直ぐに移動できるよう走りやすい靴を履いて準備したが、太陽は既に燦々と降り注いでいて、何かが起こりそうな、あの黄昏時の緊張感は全くなかった。
私は左側の端から釣り始めた。そこには巨大な松の木が沈んでいて、いかにもブラウンが住み着いていそうに思えた。空が良く晴れ渡って風が強かったが、湖面が荒れた直後だったことから、私はフローティングラインを使い、新しいフィエスタを結んで12フィートのダブルハンドを振り始めた。30メートルほど飛ばすと、丁度倒木の上にフライが届く筈だ。その辺りの水深は恐らく15mくらいあるだろう。透明度が極めて高いから、フライが水面を泳ごうが、水深2mを泳ごうが、食欲のある魚にはどうでも良いことだろう。私はそう思っていたから、フライを沈めることをしなかった。投げ終わると同時に、弛みを取るためにラインを手繰ると、3回目あたりでフライが動き始める。その当時の私の腕前とタックルでは、弛みのないラインを投げるにしても、それが精一杯だった。
豊富な餌のせいで、早いものは3年でこのサイズに成長する。
3投目だったと思う。フライを水面に落とし、私は直ぐにラインを引き始めた。そのラインの弛みが取れたと思った瞬間、フライが浮いていた場所で大きな波紋が起こり、次いでドスンという重い当たりが伝わってきた。起こしたロッドの先からラインが一直線に水面を破り、ピンと張り詰めた先がその大きな波紋の中に突き刺さっている。
私は夢中でリールを巻き続けた。魚は数回に亘って走ったが、思ったほどの抵抗もなく近寄ってきた。私は一刻も早くその姿を、忘れられないあの黒い影の正体を見たかった。やがて足下から5m程の所まで引き寄せた時、その魚は急に水面に浮上してきた。眩い朝の光の中で、それはくっきりと見えた。大きな顔、団扇のような尾、それが黒い斑点をちりばめた黄金の輝きに包まれて上がってきた。
暫くして、私は足下の砂浜に横たわった巨大な魚を見つめていた。70センチで4kg、それまで私が手にしたことのないブラウンだった。狙いすまして釣った訳ではないし、下顎も曲がっていなかったから、あの黒い影ではない。けれども、同じ場所で釣り上げたことで、私は一つのドラマが終わったことを感じていた。
-- つづく --
2001年09月30日 沢田 賢一郎