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湖沼編 • 本栖湖  --第25話--

待ち伏せ

周到に準備したとは言え、随分とあっけなく釣れてしまった。釣れた魚に文句の有りようがない。それでも私の脳裏には、あの消えることのない黒い影が生きていた。あの魚を釣りたい。それが無理なら、彼奴のように岸近くで狩りをしている魚を狙って釣りたい。贅沢な悩みだったが、黒い影はそれほど大きな存在だった。それに、大物を一匹釣り上げたとは言え、私が本栖湖の釣り方を明確に把握した訳ではない。試行錯誤は未だ始まったばかりだ。

ブラウンを釣り上げた翌週、私は同じようにフライを本栖湖に投げていた。その日はよく晴れ渡っていたが風が強く、湖面は何処も波立っていた。私は先ず長崎湾から釣り始めたが、柳の下に何時も魚がいる訳ではなかった。午前10時頃、私は長崎から更に数百メートル奥のガレ場に入った。その直ぐ奥に小さな入り江があり、更にその先に競艇の練習場ができた場所である。そのガレ場は昔から鮎を初めとする小魚が多く集まっていて、ブラウンを狙うにも有望と思っていたのだが、何分にも傾斜が急なため、シングルハンドしかない時は、釣るのを諦めざるを得なかった場所だった。
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ガレ場の下でフライを捕らえた魚は、気が狂ったように水面を飛び跳ねた。

出会いがしら

私はそのガレ場に連なる岩の上を移動しながら、大型のマドラーミノーをシンキングラインに結んで投げていた。釣り始めてから30分くらい経ったろうか、速いスピードで手繰っていたラインにドスンと言った当たりがやってきた。ロッドを起こすのと同時に、銀色の魚が水面を気が狂ったように飛び跳ねている。重さを感じることは無かったが、リールは数回に亘って逆転音を響かせた。 

魚が落ち着いたのを見計らって引き寄せると、見たこともないような魚が掛かっていた。サクラマスのように尖った口、鯛のように両端が尖った尾びれ、透き通った薄いグリーンの身体に銀色の鱗。それが当時、数の少ないニジマスだと判るのに少し時間を要したほど、それは何時も見ているニジマスとは違っていた。          

この魚は私が狙って釣った訳ではない。良さそうなポイントにフライを投げていたら釣れてしまった魚だ。殆どの魚はこうした形で釣れるから、これにも文句を言う必要は無いのだが、何となく出会いがしらの交通事故のようであった。確かにこの釣り方、つまり、下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式は、湖の釣りの定番である。面白いかどうかを別にして、湖面に何の動きも無い時は、この方法に頼らざるを得ない。それでもこの方法を私が特に飽きもせず続けられたのは、間違いなくフライの飛距離のおかげだった。シングルハンドで20m投げていたら、どんなに張り切って出かけても、一時間もすれば諦めてしまう。誰だってフライの落ちた場所が底まで丸見えだと、釣る気が萎えてしまう。けれども30mを越えると、フライは底の見えない紺碧の水面に落ちる。そこに魚が居るかどうか誰も知らない。だが居そうに見える。少なくとも周囲に魚が一匹も居ないのが判ってしまうより、遙かに希望が持てた。希望さえ有れば釣りを続けられる。続ければ何時か釣れる。その後、本栖湖で釣れた記録的なブラウンの殆どがダブルハンドで釣れたのは、偶然ではなかった。
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息切れして、ようやく大人しくなった魚を引き上げる。

吹きだまり

黒い影から一年が過ぎた。私は性懲りもなく4月の長崎ワンドに通ったが、あの水しぶきを見ることはなかった。しかし通ったおかげで様々なことが判ってきた。

早い時は3月の末頃からワカサギや鮎が死んだり、或いは死にそうになって水面を漂い始める。4月の後半、ちょうど湖畔のブナの新芽が出る頃、その新芽を包んでいた殻と共に、それらの小魚が岸に打ち寄せられる。それを狙って大型のブラウンが接岸し、食べまくる。死んだり、死にそうな餌だから、ブラウンが接近しても逃げないのだろう。彼らはまるでドライフライに出るように静かに食べる。追いかけ回す光景を見ることは少ない。餌となる小魚は水面を漂っているので、風によって流され、吹き寄せられる。吹き寄せられた餌が多くたまるのは、吹きだまりとなる湾の奥。事実、接岸して餌を追うブラウンの跳ねが見られるのは、多くの場合、風下側の湾の一番奥で、そんな時は打ち上げられた小魚が何匹も砂浜に転がっていた。
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これでもニジマス? 全身が透けて見えるようだ。

翌1978年4月の末、私が本栖湖に着いた時、湖面には強い南風が吹き荒れ、沖合は海のように白い波が砕けていた。風は富士おろしと言う言葉が似合いそうなくらい、富士山からまともに吹き付けていた。湖を一目見た時、今日は無理かなと思える程だったが、私は様子を見るために湖岸を回った。すると長崎ワンドと、もう一つ最も奥にある小さな湾だけ風が弱かった。、これなら十分に釣りができる。

私は例によって長崎湾に先ず入った。沖合を白波が勢いよく通過していたが、湾の中は静かだ。風が巻いていて、ロッドが振りづらいことを除けば、特に問題はない。暫く釣ったが何の気配もないので、私は奥の入り江に移動した。そこは川尻と呼ばれる枯れ沢の手前で、何の変哲もない浅くて小さな入り江だった。私は以前からその付近で魚を見ることが多かったので、気になっていたのだが、その日、岸辺に立って直ぐにその理由が判った。地形のせいでそこだけ風が弱いのだが、大きな波がまともに入り江に打ち寄せている。湾の奥はその吹きだまりになっていて、ブナやナラの芽を包んでいた皮が厚さ10センチ、幅1メートル以上に亘って打ち寄せられている。その中に死んだワカサギと鮎が数え切れないほど混じっていた。ラインを引き出しながら周囲を見渡すと、水面に漂う小魚の姿が波間に見え隠れしている。私はフィエスタを結び終えると、風に向かって思い切り投げた。
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フィエスタの活躍によって、モンスターは幻ではなくなってきた。

定期便

フライを投げながら岸伝いに移動してみると、湾の奥だけでなく、あちこちに小魚が漂っているのが見えた。この付近にきっとブラウンが居る。これほどの御馳走を彼らが放っておく訳がない。私は時間が経てば経つほどそんな気がしてきて、付近一帯にひたすらフライを泳がせた。

一時間近く経過したろうか、50m程離れた湾の対岸側で派手な水飛沫が上がった。
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来た。一挙に緊張が走る。私は急いでラインを掴み、リーダーとフライを点検して投げ直した。これだけの頻度でフライを投げては引いているのだ。ブラウンがやって来れば、直ぐにフライを見つけるだろう。見つければ、あの魅力的な泳ぎをするフィエスタを忽ち捕らえるに違いない。今か今かと待つうち、私の正面から僅か10メートルほど手前側で大きな波紋が広がった。完璧なタイミングだった。幸運にも、私は次のキャスティングに備えてラインをピックアップしようと思った矢先だった。私は短いフォルスキャストを一回行い、慎重にフライをもう一度正面に投げてから直ぐさまラインを引き始めた。魚の速度は速そうだ。間もなくフライを引ったくるに違いない。しかし10秒ほど過ぎた時、フライはブラウンの湖を無事に泳ぎ切り、足下に着いていた。そんな馬鹿な。私は狂ったようにラインを伸ばしてフライを泳がせ続けたが、結果は同じだった。

数分が過ぎた時、湖面は何事もなかったように静まりかえっていた。私はあの黒い影が現れた時のことを思い出していた。魚は定期的に回遊してくる。黒い影は30分後に同じように現れた。この魚はどうだろう。私が着いた時にライズは無かった。それから凡そ一時間経っている。すると間隔は一時間か。私の推測が根拠の薄いものであることは、自分でも判っていたが、その時は何か確信めいたものがあった。

-- つづく --
2001年10月07日  沢田 賢一郎