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サクラマス編 • 黎明  --第30話--

巨大渓流魚

小さい頃から無意識に持ち続けた、美しい魚に対する憧れ。私はフライフィッシングに専念するようになってから、それを一層はっきりと自覚するするようになった。いや、もしかすると逆かも知れない。美しい魚に対する憧れが、私をフライフィッシングにのめり込ませたのかも知れない。

私はその美しさに対するこだわりを、文章によって表すことはついぞなかったが、初めてのカナダツアーから15年以上も経過した1988年、「日本の巨大渓流魚・双葉社刊」(現在は絶版)という本を著すにあたり、私は初めて釣りの美しさ、魚の美しさに付いて、自分自身が持ち続けていた感覚を文字にしてみた。その本をお読みになった方が居られるかも知れないが、以下は、その前書きの要約である。
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源流に分け入り、アマゴの住む最上流で釣る。長さは32センチだが、大淵の主と思しき雰囲気を漂わせていた。
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大物を狙い始めると、釣り場はどんどん下流に広がていった。1980年代中頃の阿仁川。

「美」としての釣り

私は美しいものが好きだ。美しいものは、全ての生き物を感動させる。自然も、生き物も、芸術も、美しいものは枚挙にいとまがない。しかし、本当に美しいものは、その中の一握りである。僅かしか無いからこそ、美しいものたり得る。美という文字は、大きな羊と書く。すなわち、何百という数の羊の群を、その先頭に立って率いている一際大きな羊を意味する。その語源を知ると、美の意味がより鮮明になってこないだろうか。

私は釣りをするに当たっても、この美という感覚から逃れられないでいる。全てをこの言葉の持つ意味に則って判断してしまう。美しい魚を釣りたい、美しく釣りたいと言う想いが、いつも頭から離れない。

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桂川のニジマス。放流されて2年近く経過した魚か。このサイズになると、フッキングしてから10秒以内にロッドの先からバッキングが飛び出す。
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千曲川の支流の、そのまた支流の奥で釣ったイワナ。サイズは普通の尺イワナだが、どこか獣じみている。

私は小さい頃から様々な釣りをしてきたのに、ここ20年近くフライフィッシングにのめり込んだままである。自分でもときどき何故だろうと考えることがあった。

「この釣りには、至る所に美がちりばめられている」自分自身を納得させる最大の理由がこれだ。先ず、フライが美しい。魚を釣る以前に私を誘惑する。そして目指す魚を釣り上げ、私の選択が誤りでなかったことが判明した時、そのフライは更に輝きを増す。

ラインは、私の夢と希望を託したフライをポイントに送り届けてくれる。そのラインが描くカーブが、また流麗である。しかも、その美しさが際立てば立つほど、フライを的確に運ぶ能力に優れている

そしてターゲットの魚だ。魚はあらゆる生き物の中でも、姿が美しいものの筆頭に位置する。特に鮭鱒の美しさは群を抜いている。その中でも多くの同族を従え、流れの中に君臨している大物は、妖艶で凄絶な美しさを備えているだけでなく、気位が高く、孤高を楽しんでいる風さえある。動物なら猫科の猛獣、鳥なら猛禽。彼らの美しさは比類ない。まさしく大きな羊だ。

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雪代と共に冬眠から覚めたアマゴ。もうかなり体力を回復しているが、色は冬のままだ。
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この頃から、水量豊富な渓流をウェットフライで釣る機会が増えた。

そうした大物を狙う釣りとはどんなものだろう。大物は平均サイズの魚に比べ、数も少なく、釣り上げるのも難しい。釣りと言う、人間が魚に対して最初から優位に立っているゲームに於いて、偉大な対戦相手である彼らを狙った時だけ、人間は優位で居られなくなる。あらん限りの忍耐力と緊張感を維持し、フライフィッシングのテクニックを尽くして対峙しない限り、その存在を知ることさえ困難だ。それを承知で目標に向かって邁進するアングラーは、小物を幾ら釣っても満足できない不幸な釣り人なのかも知れない。しかし幸いにして、そのゲームに勝った時のトロフィーは素晴らしい。また、それ以上に、美しい釣りを目指すことによって身に付いた様々な能力と、それによって拓ける世界が何とも美しい。

百匹の八寸ヤマメより、一匹の尺ヤマメを釣りたいと思っている人に、この本が少しでも役立つよう願って止まない。

1988年5月

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初夏のヤマメ。30センチをかなり上回るようになると、サクラマスを彷彿させる風情を漂わす。
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私はこの前書きの中で、大きな魚は美しい、フライフィッシングは美しいと書いた。本当は、そうあって欲しいと言いたかったのだ。大きな魚が美しいのは、何も私が言うまでもないが、フライフィッシングが美しいと言うのは、多分に私自身の希望が含まれている。しかし、それは勿論、私に始まったことではない。同じような思想、哲学、信念と言ったものを持つ人達が育んできた釣り、それがフライフィッシングだったのだ。

そこに到達するまで、私はレオン・チャンドラー、ジム・ハーディ、シャルル・リッツ、ジョン・ビニアードといった人達から教えを受け、その哲学を学んだ。彼らは全て一時代を築いたアングラーであったから、そうした極めて洗練された思想の持ち主であるのは、むしろ当然と言って良かった。私が最も驚いたのは、海外に出かけた時に世話になったガイド、ロッジのオーナー、釣り場で出会ったアングラーの多くが、この釣りを美しい姿に保っていることだった。

魚を釣るためならなり振り構わず。これではスポーツでも趣味でもない。ただし、美しく釣ろうと思うと、それなりの努力が必要となる。私はこの本のあとがきでそんな意味のことを書いたのだが、明らかに自分の釣りに対する自戒の念と、それからの指針として書き記した。

-- つづく --
2001年12月09日  沢田 賢一郎