食欲
釣り上げたサクラマスを手にする度、私は持ち続けていた疑問を解こうと試みた。その疑問とはサクラマスは河川に遡上した後、餌を食べるかどうかであった。
「サクラマスは鮭と同様、河川に遡上した後は一切餌を取らない。餌を食べないから、川に上がったサクラマスを釣ることはできない」これが定説として昔から広く一般に受け入れられていた。
私は随分前からこの解説に疑問を持っていた。日本で鮭というと、勿論太平洋の鮭である。太平洋の鮭は大西洋の鮭と根本的に異なる生活様式を持っている。それは河川に生息する時間が極めて短いことだ。卵から孵化した稚魚は、何とか海まで辿り着けるほどに成長すると、さっさと川を後にして海に下る。その後はずっと海で暮らし、成熟すると産卵のために川に遡上する。川で生活するためでない。卵を淡水で産むため、単にその目的のためだけに河川に遡上する。遡上して産卵を終えれば死んでしまう。つまり、川に遡上した鮭は産卵に要する時間だけ生きていれば済む訳だから、餌を食べる必要はない。
ヤマメは河川で充分生活できる。それでも卵数を増やすため、雌は降海してサクラマスになるのだろうか。
フライやルアーで釣れるのは、それを食料と思っているのではなく、彼らの産卵を脅かす邪魔者を排除しようとするためだ。排除するために噛みつくから、形の上では針が口に刺さって釣れたことになる。
しかしサクラマスは太平洋の鮭でありながら、生活様式が他の鮭と全く異なる。生まれてから一年以上も河川で暮らし、降海して成長すると、産卵に関係ない時期に河川に遡上するのだ。産卵期よりずっと早く河川に遡上するのは、大西洋の鮭やスティールヘッド、シートラウト等と同じだ。
尤も、全く同じでないのは、サクラマスは産卵後に死んでしまうことだ。
私は当初、産卵後に死んでしまうサクラマスは、他の鮭類同様、河川に遡上後は餌を採らないのではないかと思った。しかし桜の花の咲く時期に上がったとしても、秋の産卵期まで川で半年も過ごさなくてはならない。もっと早くから遡上する魚も沢山いるとすると、彼らが何も食べないでそれだけの期間過ごすのは不自然ではないか。きっと何か食べている。そう思うようになった。しかし何処を調べても、川に上がったサクラマスは餌を食べないことになっていた。
遡上したサクラマスは、何時ヤマメに変身するのだろう。
サクラマスは何を食べる
川に上がったサクラマスが餌を採るのか、採らないのか。採るなら何を食べるのか。川に上がると同時に変化するのか、それとも次第に変わるのか。何もかも想像するしかなかった。しかしそれが判れば、釣り方やフライの選択を考える上で大きなヒントとなるから、私は是非ともそれを知りたかった。
サクラマスの胃の中。藻に混じってかなり多くのニンフが入っていた。
遡上したサクラマスが餌を採らないとしても、遡上後間もないうちは海の生活が条件反射として残っているだろう。私はそう考えてアクアマリンを使い、結果的に大成功した。それでも、本当の理由は未だ判っていなかった。
魚が釣れないうちは空想を巡らすしかなかったが、実際に釣ってみればはっきりする。私は釣った4匹のサクラマスの胃の中を調べた。一匹目は完全に空だった。二匹目は何かの屑が残っていたが、それが何だか判らなかった。ところが三匹目と、四匹目の胃の中を調べて驚いた。胃の中から藻のような屑に混じって、多数の川虫が出てきたのだ。それもフックサイズに直したら12とか14番と言った小さなものが多かった。
あの身体と海での食生活を考えたら、何という貧しい食事だろう。正に究極のダイエット生活だ。しかし食べていることに違いない。胃の中に残っていた川虫の数はかなり多かったから、彼女が流れてくる川虫を頻繁に補食したことは確かである。それほど多くの餌を食べているなら、釣り方さえ工夫すればもっともっと釣れるはずだ。
2尺ヤマメ
雪代の増水によって多くの餌が水中を流れる。ヤマメもイワナもそれを鱈腹食べて成長する。成長する訳ではないが、サクラマスも同じではないだろうか。
サクラマスが食べていた黒川虫。これでは痩せる一方だ。
私は雪代が流れ始める頃の釣りを想い出していた。春になった頃、日中、気温の上昇と共に雪が融け、河川に流入する。朝方澄んでいた川は、急に増水し濁る。その瞬間、それまで眠っているように見えた渓流魚は流れに出て夢中で餌を採り始める。
サクラマスの胃の中に沢山の川虫が入っていたと言うことは、彼女らの食欲が川虫が大量に流れ出したことによって目覚めたことの証拠ではないか。もしそうだとしたら、雪代によって増水した時や、水温の上昇によって川虫が羽化した時が、彼女らを釣るチャンスと言うことになる。
結局、ポイントも釣り方も、そこに居る彼女らの稚魚であるヤマメを釣る方法と何ら変わらないではないか。違うのは、彼女らが将来の産卵に備えて遡上を続ける、つまり、移動してしまうことだけだ。
日に日にヤマメ化するサクラマス。河川で生活する限り、この体型を維持できない。
私はこんな調子で勝手に想像を巡らしていった。河川に遡上したサクラマスが何も食べないと言われてきた根拠の一つに、胃の中から何も出てこないことと、夏になると消化器が退化してしまうことが挙げられていた。
これについて私は、何も出てこないのは、長い時間消化に時間の掛かる餌を積極的に採らないためと考えた。
ウグイを丸飲みすれば消化に時間が掛かるから、未消化の餌が胃の中から出てくるケースがかなりあったろう。恐らく彼女らの食欲はそこまで強くないのだろう。しかし楽に食べられる川虫は彼女らの消化能力からすれば、瞬く間に消えてしまうだろう。刺し網漁で捕らえたら、網に掛かる前に食べたものなど消えているに違いない。
消化器が退化するのも当然のように思えた。海での食生活に合わせた胃腸は河川での食生活には全く不必要な大きさとなる。小さなヤマメ程度の胃腸で充分足りるだろう。そして、産卵期が近づくにつれ、その必要性はますます低下するだろう。
幾多の難関を乗り越え、サクラマスは遡上を続ける。
遡上
最後に、何故彼女らは産卵期の遙か前に河川に上がるのかを考えてみた。サクラマスの子供はヤマメだ。本来降海するのが当たり前なのだろうが、陸封型であるヤマメの数も多い。その数は南に行けば行くほど増える。即ち、サクラマスは北の方に多く誕生する。北の河川は貧しい。栄養価の高い餌が少ないため、河川で寿命まで生息しても、たいした大きさになれない。ヤマメの卵数は300前後、一方のサクラマスはその10倍の3000以上もある。子孫を増やすには卵の数を増やすに限る。生殖のために必要な雄は小さなヤマメで充分だから、卵を増やすために、雌のヤマメはさっさと海に下ってサクラマスとなり、沢山の卵を持って雄のヤマメの元へ遡上する。
栄養豊かな川で育ったヤマメ。どことなくサクラマスの雰囲気を備えている。
ところがヤマメは南へ行けば行くほど源流域に生息する魚だ。その源流域まで遡上するには時間もかかるし、急流を遡上するためには水量も必要となる。また、水温の低いうちに上流域に到達しないと、中流域では夏の高水温に耐えられない。こうした理由から、彼女らは水温の低い水が大量に流れる時期に遡上を始め、産卵期の秋までにヤマメの生息域に到達するのだろう。南の方が早く水温が上がるから、遡上が早いのも頷ける。鮭は中流域で産卵してしまうから、前もって河川に遡上する必要がないのだろう。生まれた稚魚も水温が高くならないうちに海に下ってしまうから、冷たい水が夏でも流れる海抜の高い地域まで上る理由もない。
この推測は、数年後に間違いでなかったことが判った。サクラマスはチェリーサーモンとして海で成長し、河川に遡上する。その時を境に彼女らは海の魚から川の魚に変身を始める。その行き着く先は巨大なヤマメである。私はこうした想像を巡らすうち、何時しか彼女達を2尺ヤマメと呼ぶようになった。
-- つづく --
2002年03月31日 沢田 賢一郎