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忍野編  --第52話--

消えた魚

枯れ木のようにじっと突っ立ったままの一刻が過ぎた。ブラウンは相変わらず目の前で鰓ぶただけを動かしている。私は漸くその魚の周囲に視線を這わせた。驚いたことに、少し下流にもう一匹居るのが見えた。最初の魚に釘付けになっていたから気が付かなかったが、それも同じくらい見事なサイズだった。目の錯覚があったとしても、50cmを越えている。

私は迷った。早く車に戻ってロッドを持って来たい。しかし少しでも動いたら、ブラウンは何処かへ行ってしまうだろう。早く釣りたい。でも何時までもこの素晴らしい魚を見ていたい。

私はゆっくりと後ずさりし、背をかがめてその場を離れた。幸いブラウンはじっとしている。私は土手を駆け上がると大慌てでロッドを繋いだ。しかしリーダーを通し終わったところで途方に暮れた。一体どんなフライを結べば良いんだ。
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1970年代初めの忍野下流域。周囲は全て雑木林に覆われていた。この写真で見える下流の対岸で、ブラウンを発見した。それから10年ほど後、右側の山に富士急ホテルが建った。

私には迷っている時間は無かった。ボックスの中にある大きなストリーマーを結ぶと、大急ぎで土手を下った。あの見事なサイズのブラウンが、小さなドライフライを食べるようにはとても見えなかった。

私は芦の手前で止まり、川面をそっと覗いた。未だ居た。ブラウンは先程より僅かに上流へ移動しただけで、じっとしていた。私は目の前の芦を静かに掻き分けると、そっと川縁に近づいた。ポキッ、ポキッ、靴の下で芦が折れる音がする。その度にヒヤヒヤしたが、ブラウンは何も聞こえないと言わんばかりに、その場を動かない。

私は芦の藪を潜り抜けると、右手でしっかり押さえいたストリーマーを放し、ロッドを振り始めた。と言っても5mにも満たない距離だから、フライは直ぐにブラウンの頭上に落ちた。水深は1m有るかないかだ。ブラウンが反転すれば一瞬の内に捕らえることができる。私は固唾を呑んでその光景を待った。

しかし何も起こらない。水面に落ちたストリーマー、黄色いタウポタイガーは暫く浮いていたが、やがてブラウンのすぐ脇をゆっくり沈み始めた。ブラウンはそれでも、まるで寝ているように動かない。

フライを動かせば襲いかかるかも知れない。私はそう思ってロッドをゆっくり持ち上げた。ゴミのように沈んでいたフライがすっと動いた。その瞬間、私はブラウンと眼があったような気がした。ブラウンはゆっくりターンすると霧のように視界から消えた。私は暫くぶりに呼吸をしたような気がした。
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岸に野薔薇、水面にクレソン、水中は金魚藻に覆われていた。

白日夢

幻覚ではない。真っ昼間の出来事だ。こんな川にとんでもない鱒がいる。それもブラウン・トラウトだ。釣るのが難しい鱒、最も野性的な鱒、そして優雅なシューベルトの鱒が本当にいた。

私は下流にもう一度引き返した。魚が消えた辺りから下流をくまなく探したが、ブラウンはおろか、メダカ一匹見えない。水は綺麗だし、川底には身を隠すような障害物もない。あれだけの大きさの魚が何処に消えてしまったのだ。芦の間をあちこち歩き回って見たものの、何一つ発見することができなかった。私は後ろ髪を引かれる思いがしたが、それ以上探すのを諦め、川沿いに上流を目指した。

急な土手を迂回すると、川は畑の中を流れていた。その付近だけは大きな溶岩が所々に顔を出し、大人しいけれど川らしく流れていた。川沿いに雑木が枝を伸ばしているので、水中の様子は判りづらい。
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忍野とは対照的に、明るく開けた南アルプスの渓流。ラインを思い切り伸ばして広いプールを釣るのが楽しい。後に、ここでイワナやヤマメを釣り、その帰りに忍野に寄ることが定番となった。

見晴らしの良い場所に来ると、水面をクレソンが一面に覆っていて、その下は見えない。流れが岸にぶつかっている所には木が根を張っていて、その下が抉れている。直ぐ上から覗いても全く見えない。

更に上流に向かい、赤い色の橋を通り過ぎた辺りから、今度は川底が綺麗な金魚藻に覆われていた。藻は川底から長く伸び、流れに任せてゆらゆらと舞っている。その下に隙間が沢山あるのが判る。しかし覗いて見ることができない。何という川だ。この川は隅々まで隠れ家だらけだ。60cmはおろか、1mの魚が居ても見えないだろう。

自衛隊橋

川沿いには人の歩いた跡がずっと付いていた。私はそれを辿って更に上に向かった。急な斜面を越えたところで、川は大きくカーブしていた。庭のようだと思ったら、忍野温泉という古びた旅館が建っていた。カーブの外側は大きな木々が根を張り、その下が長い距離に亘って抉れていて、川底が見えない。波が一つも無いため、しんと静まりかえっている。

温泉の外れに水路があった。その先に二つ目の取水口が設けられていた。取水のための堰堤を迂回すると、右岸側に水田が広がり、その先に古びた木の橋が架かっていた。初めて来た時に様子を見た橋だ。橋を渡ってそのまま進むと自衛隊の駐屯地に向かうことから、自衛隊橋と呼ばれていることを後で知った。

私が橋に向かって歩いていると、何となくその場に不釣り合いな格好をした人達が数人見えた。大きなレフ板を持ったり、メガホンを握っている人も居た。何かの撮影をしているらしい。近寄ってみてびっくりした。ちょんまげを結って刀を差した人が二人座っている。時代劇の撮影をしていたのだ。

そう言えば初めてここに来た時、何処かで見たことのある景色だと思った。それを渡世人風の役者が橋の上を歩くのを見て想い出した。時代劇の撮影によく使われる場所だったのだ。水田の中に川が流れ、そこに今にも落ちそうな木の橋が架かっている。田んぼの向こうに松林、その向こうに富士山が聳えている。確かに時代劇に持ってこいのロケーションだ。
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忍野温泉の下流域。初めて来た時は相手にして貰えなかった。その後、キャスティング・テクニックの見せ所として人気が高まった。魚を釣るために川に入るのは、はた迷惑のためもちろん厳禁。

私はその後も数回に亘って撮影している現場に遭遇したが、数年後、老朽化した橋を現在のコンクリート橋に掛け替えてからは、カメラマンと言えば、専ら富士山を撮影する人達だけになってしまった。この場所はその人達にも人気が高いようで、見慣れた景色をカレンダーや写真集でその後何度も眼にするようになった。

私はその古びた自衛隊橋の下を潜って上流へ向かった。私の歩いている右岸側は水田と畑が広がり、対岸は雑木林となっていた。川底は下流よりずっと変化に富んでいて、所々に底が良く見えないほど深い淵ができていた。何の変哲もない下流であんなに大きなブラウンを見たくらいだ。この辺りには一体どんな魚が潜んで居るだろう。私はわくわくしながら歩き、立ち止まっては川底を覗き込んだ。ずっと上で、一度だけ灰色の影が川底を動くのを見た。上流にも魚が居る。

私は所々でフライを投げてみたが、ただロッドを振っているだけで、全く釣りになっていないのを自分でも感じていた。暫くしてて陽が陰ると、急に寒くなってきた。水中の様子も全く見えない。釣りをする季節には早すぎたのだろう。私はそう思って忍野を後にしたのだが、帰る間も、あのうっすらと緑色がかったブラウンが脳裏に焼き付いて離れなかった。

-- つづく --
2002年08月18日  沢田 賢一郎