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忍野編  --第58話--

手応え

流れを横切るラインの重さがロッドに伝わってきた。ナチュラルドリフトからはほど遠い流れ方だ。放流魚ならいざ知らず、こんな流れ方のフライを食べる魚が居る訳無い。しかし二匹目、いや最初の魚が出てきた時だって、フライはナチュラルドリフトなんかしていなかった筈だ。

ブラウントラウトを釣るには、チョークストリームでドライフライをナチュラルドリフトさせるのが、最良の方法ではなかったのか。それを必死になって目指していたのに、今まで釣れなくて、どうして流し方に失敗した今日、こんな見事なブラウンが釣れたのだろう。どう考えても不思議だ。

そんなことに想いを巡らすうち、ラインが私の下流側で止まった。すっかり流れを横切ったらしい。私は更にリールから1mほどのラインを引き出し、下流の対岸に生えているケヤキの根本に向けて投げた。この長さだとプールの開きを越えてしまうかもしれない。

数秒が経過した。そろそろフライが流れの中央にさしかかる頃、ゴンッと言った当たりをロッドに感じた。木の枝やゴミではなく、明らかに何か生き物がラインを引っ張ったように思えた。それでも私は半信半疑のままロッドを持ち上げた。それは根掛かりしたように動かなかった。何だ、やはり木の枝に掛かってしまったのか。そんな想いが一瞬、私の脳裏をよぎった。

次の瞬間、それはもの凄い力で下流に走った。同時に大きな水しぶきが上がった。魚だ、それも大きい。ロッドが引ったくられそうになるのを懸命に堪えたが、数メートルのラインがリールから飛び出していった。魚はそこで止まって頭を振っている。
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フッキングしたブラウンが浮上してきた。一度浮上すると、すっかり大人しくなる。

持久戦

これ以上走られると下流の瀬に入ってしまう。大きな魚が重い流れの瀬を下ったら、一体どうなるだろう。掛かった魚に瀬を下られるのは、鮎釣りでさんざん経験している。鮎はリールを使わないから、魚について瀬を駆け下りるのは大変だ。それに引き替え、フライロッドにはリールが付いている。しかもそこには十分のラインが巻いてある。幾ら走られたって、ゆっくり後を追えば良いから安全だ。

けれども、魚を追って下るには水際から一度土手に戻らなければならない。しかしすぐ下流に吊り橋が架かっている。魚がその下をくぐって下ったら、私も同じようにくぐれるだろうか。

吊り橋の下は深くて流れも速かった。それならば橋を渡ればどうだろう。いや、右岸側は更に深くて流れも急だ。魚が吊り橋をくぐったらもはや追うことはできない。万事休すだ。

瞬きするほどの時間に、そんな光景が私の頭の中で目まぐるしく浮かんでは消えた。

魚は暫く暴れていたが、やがてそれまでの魚と同じように私の方に近寄ってくると、目の前のプールに潜り始めた。しめた、これで勝てる。そう思ったのも束の間、今度は凄まじい強さで淵の底に張り付いてしまった。ロッドは今まで見たこともないほど大きく曲がっている。私は必死になってロッドを起こし続けたが、ロッドの先が私の目の前にあった。この状態でロッドは持ちこたえられるだろうか。魚が少し潜る度、その先端が水面に何度も突き刺さった。

5分ほど経過した。魚は弱る気配を見せない。時折、移動するものの、相変わらず川底に張り付いている。ロッドを支える左手が痺れてきた。感覚が次第に薄れていく。私は手を休めるため、時々ロッドを右手に持ち替えたが、その間隔が短くなってきた。最後には両手とも棒のようになってきた。いったいどれほどの魚だろう。
春先に見つけたブラウンの姿が目に浮かんだ。次いで忍野太郎の顔がちらつき始めた。
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4月初旬に釣ったブラウントラウト。後に一世を風靡したマドラーミノーをくわえている。

白い固まり

まさか太郎がここにいたのか。いや、堰堤を越えて上がって来ることはできないはずだ。もしかしたらここにも太郎の兄弟のような奴がいたのか。2匹目を掛けたとき、かなりの大物だと思った。しかしこれはそんな引きではない。少なくとも私がフライロッドで経験したことのない強さだ。本当にとんでもない魚かも知れない。

辺りはすっかり暗くなり、水中の様子は全く見えない。気が付くとロッドの先から伸びているフライラインが殆ど無くなっていた。かなり引き寄せた。もう少しだ。

糸よ、切れるな、竿よ,折れないでくれ。私は祈るような気持ちで、ロッドを起こし続けた。ようやく水面が波立つほど魚を引き上げると、また潜ってしまう。それを数回繰り返す内、遂にボーっとした白い固まりが見えてきた。

岸際から急に深くなっているので、川の中に入ることができない。私は地面に膝をつき、ヘラブナを釣るときの様に、右手を後ろに突き出してロッドを起こした。
左手で何とか触れる所まで魚はやってきた。しかし丸々と太った魚は容易に掴めない。掴むのに失敗する度に、心臓が止まりそうになる。私は傷つくのを覚悟で魚の口に指を入れ、引き上げた。

目の前の芦の上に、はち切れそうに太った魚が横たわっている。暗かったが、一目見て長さが50cmを越えているのが判った。体の割に随分と頭が小さい。大人しそうな顔をしているから雌だろう。そこまで見届けたが、そこから先はすっかり上気して何も考えられなかった。
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1976年3月1日。解禁日の忍野。昼間、釣り人に会うことは希だった。

困惑

胸の鼓動が収まるのを待って、私は漸く立ち上がり、車を留めてある自衛隊橋に向かった。吊り橋を渡るとき、気のせいか、いつもより大きく揺れたような気がした。

私の頭の中は収拾がつかないままだった。素晴らしいブラウンを釣った。それも3匹立て続けに。まるで夢のようだ。いや、夢にも見たことがなかった。

私は今日、これまで一度も糸に結んだことのないフライを使った。しかも浮きが悪く、ひどいドラッグが掛かっていた。結果から見る限り、ドライフライの釣り方ではない方法で釣れてしまった。

今まで目指してきたナチュラルドリフトは一体なんだったのだ。だいたい3匹目の魚など、魚が出てきたのが見えなかった。魚が出てくる時は、あの太郎がそうだったように、フライが流れている場所で大きな水飛沫が上がる筈だった。それが波紋はおろか、何の前触れもなく、いきなりロッドに当たりが伝わってきた。

「フライを捕らえた魚は、すぐにそれが偽物だと気づいて吐き出す。だから魚がフライをくわえたら、間髪を入れずに合わせなければ逃げられてしまう。」

これまで何度も聞かされてきた、このフライフィッシングの常識は一体どうなったのだろう。

魚はフライを吐き出さなかったどころか、はっきり判るほど大きな当たりがロッドに伝わってきたのだ。その魚が狡猾で、もっとも釣るのが難しいと言われたブラウントラウト、しかも一番大きな魚だったではないか。

私はこの日、自分がこれまで想像したこともない、全く未知の世界に迷い込んでしまったことに気づいた。これまでに知ったことを根底から覆す出来事が、この先、際限なく起こることを予感していた。

-- つづく --
2002年09月29日  沢田 賢一郎