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スティールヘッド編  --第142話--

6日目

前日にブルースが仕入れた情報によると、上流で複数の魚が跳ねたのを見た人がいると言うことだった。このところ日に日に釣り人の数が増えており、釣り場が窮屈になってきたため、我々はその情報を頼りに上流へ行くことになった。向かった場所はマーテル・アイランドの少し上流の右岸側、ロック・ランと呼ばれる比較的傾斜のきつい瀬であった。ジョーンズ・ロックに比べ、川幅が狭く、岸寄りから程よい深さになっていた。つまり遠投する必要が少ない場所だった。

丁寧に一流ししてみたが、何の反応も無かった。なんとなく感じた事ではあるが、どうも日を追う毎に魚の反応が鈍くなっているように思えた。その原因が何かと言うことだが、私は天気の良さと水位の低下が大きいと思った。魚が幾分、神経質になっているのではないか。もしそうだとすると、釣り方、特にフライを変える必要が有る。
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スリムなだけでなく、渇水の中でも良く泳ぐスペイフライ、キャロン。サーモン・フィッシングの経験が役に立つ時が来た。

釣り方を変えるのに、フライやラインを変更するのは最も頻繁に行われる手段だ。変更することに依って魚の反応が変われば、その時の魚の習性などがわかる。しかし魚の反応が変わったかどうか、何を根拠に判断すればよいのか。一番は、釣れなかった魚が釣れることである。

ロック・ランは魅力的な瀬ではあったが、私はこれまで不発に終わっていた。釣れる、釣れないは運や巡り合わせと言った要素が大きく作用する。そうした偶然が多くを支配する世界に於いて、巡り合わせの良い場所は、その時々の状況を判断する上で、運の悪い場所より遥かに的確な状況判断をもたらす。

今まで一匹も釣れたことの無い場所で、その日も釣れなかった時と、同じ釣れなかったのが、これまで何匹も釣っていた場所の場合では、受け取り方に雲泥の差がある。つまり、ロック・ランで釣れなかったことは、今の状況を判断する上で、余り重要ではないということだ。
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滑る川から上がって戦闘開始。もう一度、同じことを繰り返す。

それなら今まで最も多くの魚と渡り合った場所なら、より的確な判断が下せるに違いない。我々は右岸沿いに川を下り、そのままジョーンズ・ロックに向かった。幸い川岸に人影は無かった。我々はそれが習慣となっているが如く、ブルースが瀬の中央、その上にマリアン、そして最上流に私が入って釣り始めた。
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走らない魚は弱らない。長い時間を掛けて引き寄せる。

同じ場所を何日にもわたって釣ると、僅かな違いも良く判るようになる。水位が更に下がって、流れが一層大人しくなっているのが誰の目にも明らかだった。私は魚の反応が日に日に悪くなっている原因の多くが水位の低下にあると感じていたので、フライを小さくすることにした。それまで2/0程度のフックを常用していたが、その日はリーダーの先に2番のフックに巻いたスペイフライ、キャロンを結んだ。

水位の低下に伴って流れが大人しくなったため、ウェーディングは容易になった。楽になったと言っても、たかだか1mほど流芯側を歩いているに過ぎないが、それでも身体に掛かる水圧は減り、滑りやすい川底を歩く上で大きな助けとなった。水位が落ちると魚は警戒心からか、それまでより岸から離れて定位することを私は長い経験から知っていたため、その日はこれ迄にも増してフライを遠投し、1mでも遠くの流れにフライを流すよう心掛けた。
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漸く浮上する。まるで大きなハタのようだ。

長い瀬の半ば近くまで釣り下った時、下流の瀬を横切り始めたラインが軽いショックと共に抑え込まれた。まるで根掛かりのようであったが、そこは根掛かりを起こすような場所でない。私は自信を持ってロッドを持ち上げた。魚だ。張り詰めたラインに頭を振る大きな振動が伝わっていた。

その魚はこれまでとは少し違ったファイトをした。幾らも走らない。しかし川底に張り付いて動こうとしない。まるで大きなハタが掛かったようだ。走らない魚は疲れない。いつまでも強い力で流芯に留まり、川岸に引き寄せられることを頑強に拒んだ。私は長いファイトになることを覚悟し、張り詰めたラインが何処かに掛る事の無いよう、ロッドを思い切り高く掲げながら岸に向かって歩いた。
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なるべく安全な場所へ誘導する。

無事に川岸に辿り着いたところで、私は改めてラインを強く静かに張った。川底に張り付いた魚は頭を振って抵抗したが、僅かづつ近寄ってきた。フライラインの後端が水面から覗いた時、魚は私が時間を掛けて少しづつ巻き取ったラインを、有無を言わせぬ力で一気に引き出し、元の位置に戻ってしまった。この魚は私が無闇に挑発しなければ、飛んだり跳ねたりする気がないようだ。
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どことなくユーモラスなオスのスティールヘッド。長さに比べ重い。

私は再び静かに、滑らかに、しかし強く魚を引き寄せに掛かった。最初の時と同じように、魚は頭を振りながら近寄ってきた。そしてラインの後端が水面から高く上がった時になって、再び元の位置に戻った。私は焦らずにそれを繰り返した。必要以上に刺激せず、しかし一時も休ませずに魚を引き寄せ続けた。同じような攻防を何回も繰り返すうち、魚は急に水面に浮上した。長時間のファイトで力が尽きたのだろう。これまでのファイトが想像できないほど大人しく、足元に寄ってきた。

左の唇に止まっているフライが見えた時、一瞬、血の気が引いた。強引なファイトをしていたら、恐らく肉切れを起こしていたに違いない。私は水中に跪くと、すっかり大人しくなったスティールヘッドを慎重に抱き上げた。今まで釣ってきたスティールヘッドとは格が違っていた。体重は20ポンドを遥かに上回っているように見えた。
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どことなくユーモラスなオスのスティールヘッド。長さに比べ重い。

「岸近くで食ってきただろう?」

そう尋ねたブルースに対し、私は

「いや、これまでと同じようにかなり遠くで食った」

と答えた。ブルースは、私の返事に納得がいかないといった表情をしていたが、元の場所に戻ると胸まで水に浸かり、ラインを思い切り遠くまで投げ始めた。

-- つづく --
2016年01月16日  沢田 賢一郎